昭和49年06月13日 朝の御理解



 御神訓 一、「表行よりは心行をせよ。」

 心に諸々の不浄がある。諸々の不浄を祓うと言う事。払うと言う事に取り組むという事。だから矢張り修行中。不浄があっても、ね、というのは心が汚れたと、その心が汚れたと、それを祓うて行くと言ういうなら修行。その心からですか様々な不浄を取り去るとお互いの心がどう言う事になるかというと、一切のものに事柄に調和する心が向かう。だから心行とは一切のものに調和する心、と言う事に精進する事それが心行である。
 お互いの心がどう言う所に行っても、するすると入って行けれる、しかもそれで調和して行く心。心行とはそういうおかげを頂く為に、修行するのが心行です。ですから是はどうでも矢張り表行によらなければいけない事が沢山あると言う事です。自分の心を極めると、例えば言う事だって、ただ心行しようと言うそれだけでは、私共人間は中々難しいです。そこで例えば心行の成就する事の為に表行をしておる。ここん所をいうなら表行が出来ん者に、心行が出来るかと。
 四神様のお言葉ですけれどもね、実をいうたら心行は表行をしなければ出来ん。不思議に表行、なら解りやすく言うとです、なら心を清めると言うけれども、ね、例えばお神酒なんかを頂きますね。心行としての表行所がどうですか、心行をした後が自分、言うなら身だけではなくて、身も心も極まる思いがするでしょう。ん、そう言う物が言わば心行なのです。ですから「表行よりは、心行をせよ」とは、と言う事は、ここでは表行、心行というのは、共なうものだと私は思います。
 同時に例えばこうして一日お参りをする、朝参りを皆さんの様になさると言う様な事が、ただ一つのマンネリと言う、マンネリ化してはダメです。矢張り心を清める事の為の修行として頂くと良いです。心を清める事の為の修行。心行によってお徳を受ける。表行によっておかげを頂く。磨くできない。そう言う様な風に頂いてもよいと思う。心行について申しますと、もう心行の為に表行をするという生き方。それでも今度は心行によって、お徳を頂く。心行とは不平不足をいわん心。いうならば腹を立てない心。
 そう言う心がまぁいうならば和賀心。同時にそう言う心が一切の上に調和して行く、どんな所にでもするすると入って行く素直な心です、と言う事になります。だからお徳を受けるはずですね。心行とは素直に調和する心。神様のいうならばお心に、するすると入って行けるとこう思うですからね。所が私共はねまぁいうならば願いをと。それももうもう待ってはおられないと言う様なおかげ。どうでもと言う様なおかげ。そういう例えば病気なら病気。金銭の事なら金銭のお繰り合わせ。様々な問題。
 それを解決策としての信心。それをまぁ心行では、まぁ神様任せの様な感じがする。ない事もないでしょうけれども、どうかしなければおられないと言う物が生まれて来る。そこを、それ又表行がある。こっちならこっちどうでも。だから金光様のご信心は、そういういうならもうそれこそ、牛馬の事に至るまで、人間身の上の事何なりとも、何なりとも色んな事の問題の中に、どうでもっとこう言わねばならん時にです、ね、本気で願うというか、ね、実意に願うと言う事は、本気で願うと言う事だとこう思う。
 人生の中には色々な事がありますけどね。又は一心に願えと云う事だと思う。そこで本気で願うております。一心で願うておりますという証がいるんですね、そこに表行があるです。例えば表行心行のいわばこれは車の付いて離れにも。伴うものだと言う風に聞いてもらって。今私が申しましております事は、心行によってお徳を受けて行くならば、表行を持っておかげを現して行けるかと。そこがなら実意がいわ実意を持って願うと言う事です。それは牛馬の事に至るまでです、人間の身の上の事何なりともです。
 なら実意とは、実意を持って願うと言う事は、どう言う事かというと本当な心。実意丁寧の実意と言うのもあります。けれども本当の心。自分が本当に感じておる。例えば痛いなら痛いと感じて、欲しいなら欲しいと感じておる。それを言わば誤魔化さずに赤裸々にです、自分の願うておる事を、又は自分がほっしておる事を、何なりともと仰るのだから。願う。そんならそういう言うならば、一心と言う事をまぁ実意と言う事を、本気で又は一心でという風に申しますけれども。
 その一心とか本気であるならばその一心でありますという、証を立てる。本気で願っておるならば本気ですという証を立てねば。その証を立てるという時に、表行が必要になんです私共は。人間のまぁ神様への証を立てる手段としてですね、私は神様この為にあなたにお縋りしておりますと、いうその縋っておる個所を見せなければならん。ね、立てというのは行ですかね。これだけの思い。一心にお願いしますというても、ね、一心の場合もありゃ一節の場合もある。
 だから私はこういう思いでお願いしておりますという、証をたたえる時に表行はどうでも必要だと思います。それよりなら朝参りと言う事になってまいります時に、その朝参りは生き生きとしてまいります。それでも矢張り一心を神様にお届けすると言うか、ね、一心を神様に見せ付ける為にです、ね、断食も良かろう心行も良かろうと言う事になる。あれは、いうなら自分の一心の立てを通して、筋つくるのだから表行必要ですね、そこにその、今まで見えなかったおかげが見えて来る。
 今日は私そこん所をですね、あの、言うならば唯一心行と言う事ですね、まだここを神様にお願いしよるから、何時かはおかげになるだろうと言った様な悠長な心ではなくて、そのことが本当にですよ、あのそれでよかれば良いです。けれどもそれではね、何時おかげになるやら分からない。こりゃもうどうでも、此処ががおかげを頂きたいならばです、その代わり神様、いうなら好きな物も絶ちますからとか、ね、断食でもさせて貰いますからとか。心行でもさせてもらいますからと言う事になるんです。
 だからその表行も踏ん切りきらない様な事で、心行を思い立とうなんて言ったって、本当は、本当の心行は出来ませんね。心行というのはそれよりもっと難しいからです、本当いうたら。だから今日は心行と表行の繋がりと言う事と同時に、心行と表行と切り離した、ていわば心行を、お徳を受けて行くと言う事であるならばです、表行という事をいわば形に表れて来る行ですから、形に表れて来るおかげです。
 その事をまぁ今日は聞いて頂いた。まぁ皆さんあの一つ本気でね、奮起しての事、本気でおかげ頂かんならんと思うならば、その本気でこの位に私は本気に願うておりますという印をね、言わば表行に現していた表行をです、銘々の所で訓練なさったらどうでしょうか。必ず私はそのおかげは見えて来ると思うです。それは神様にこれ位に本気ですよ。これ位に一心ですという印を、いうなら証を立てる事になるですから。神様が聞きなさらん訳にいけない事になって来るんじゃないでしょうかね。
   どうぞ。